期間限定薄桜鬼ブログ
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結局、千鶴が屯所に戻ったのは広間に夕餉が並べられ始めた頃だった。
一度自室に寄ってきたのか、出ていた折に腰に差していた小太刀は見あたらない。八木氏内儀が膳を運ぶのを慌てて手伝い、いつものように飯釜から全員分の茶碗に米をよそった。
各人の膳に茶碗を配った折、沖田の前で千鶴は小さく手拭いの礼を言った。沖田は「どういたしまして」と目元を緩めた。夕餉の間に二人で交わされた会話はそれきりだった。
尤も、久し振りに局長副長が揃った夕餉の話題はもっぱら西本願寺移転に関する交渉の推移に終始し、雑談が交わされるような雰囲気でもなかった。
千鶴は早々に食事を切り上げて静かに広間を出た。何人かの視線が気遣わしげに千鶴の背に注がれたが、彼女が気づくことはなかった。
その夜。文机に行灯を寄せて土方が書面をしたためていると、障子の向こうに遠慮がちな気配がわだかまった。
だが入室を求める声は聞こえてこない。土方は筆を置き、溜息をついてから声を掛けた。
「どうした」
土方の呼びかけに観念したのか、障子越しにか細い声がした。
「土方さん……少し、いいですか」
「入れ」
夕餉の時よりも青白い顔をした千鶴がきちんとした作法で入室し、その場に正座した。土方は腕を組み、顎の先で自分の前に座るように促した。千鶴は手をついて軽く頭を下げると土方の指示に従って文机の前に移動した。
「で、何の用だ」
平坦な土方の声に、千鶴は膝に置いた両の拳を握り締めた。袴に皺が寄る。俯き、ぎこちなく口を開いたり唇を噛み締めたりする様子からは、早く話さなければという焦燥と容易くそうはできないという葛藤が見て取れる。
土方は無言で彼女の葛藤の終結を待った。
やがて千鶴は震える息を大きくついて顔を上げた。
「土方さん……もし、もし私が、父様を探すのを諦めるとしたら……どうしますか」
「……」
彼にとっては意外な話ではなかったのか、土方の表情はほとんど動かなかった。
「……江戸に帰りてえのか」
「……」
冷静な視線を向けられ、千鶴は是とも否とも言わず黙したまま下を向く。
土方は、すっと鋭く片眼を眇(すが)めた。
「おまえは新選組の秘密を知っている。本当なら殺してしまいたいところだが……」
そして苦笑した。
「……江戸に幾つか伝手(つて)がある。素性を隠し、ただの娘としてそこに居てもらうことになるだろうよ」
「……え……?」
思ってもみなかった言葉を聞いたとばかりに、千鶴は目を剥いた。ゆっくり顔を上げる。
そこには、まだ苦笑を浮かべたままの土方が居た。
「……殺さないんですか」
問う声は掠れた。疑問の形に開かれた唇は結ぶことを忘れられたように放置される。
逃げるなら殺す、秘密を知ろうとすれば、漏らすようなら殺す。一年以上もそう言われ続け脅され続けてきた少女の反応としては無理もない。
千鶴の呆けた顔を見て土方は少し笑った。
「まあ、そこで怪しい動きでもするようなら放っちゃおかねえが。そういう奴じゃねぇだろ、おまえは」
「──」
気安い笑みを含んだ土方の言葉に。
千鶴の双眸は零れんばかりに見開かれた。
拳に握り込まれた袴に、更に皺が寄る。拳は震えた。腕も、肩も。
息は一呼吸、音を立てて飲み込まれ、止まった。
瞳に涙が滲んだと見えた瞬間。
それはとめどなく溢れ出て、頬を伝った。
頬を伝い顎を滑り落ちて小さな拳に、袴に落ちる。
突然の雨のように。
土方は珍しく困惑した様子で眉を寄せた。
「……おい、何故そこで泣く」
「すっ、すみません。なんっ、でもありません、ありがとうござっ…います…」
千鶴は呼吸と謝罪と礼とを一度に行おうとして少しむせた。土方は肩をすくめて苦笑した。
呼吸を整えながらあわあわと涙を袖で拭い、力任せに擦った為に目の周囲を朱く腫らした千鶴は、畳に両の指先を揃えた。
「これからも、ここで父様を探します。新選組の力を貸してください!」
勢いよく、深々と頭を下げる。
土方は千鶴に頭を上げるように言って、組んでいた腕を解いた。
「ま、そうしてくれるとこちらもいろいろと手間が省ける。江戸で誰かに預けるってぇのも面倒な話だからな」
「はいっ、──あ、屯所の移転でこれから忙しくなりますよね、私に出来ることがあれば何でも言ってくださいっ」
ばっ、と頭を上げた勢いのままの口調にも、部屋に入ってきた時とは別人のような輝きを湛えた瞳にも、千鶴が感じているであろう嬉しさが満ち溢れていた。
土方は一度目を閉じ──開いて、頷いた。
しょうがねぇなと言わんばかりの、苦りきっているくせにどこか甘い、沖田に過保護と称される顔をしていた。
「……わかった」
「ありがとうございます!」
「話はそれだけか」
「あ──」
そこで、久々に顔をほころばせていた千鶴が言いよどんだ。
「どうした」
「一つ、お願いがあるんですが……」
「何だ。言ってみろ」
千鶴は畳に指をついて前のめりになっていた姿勢を戻し、左右の腿の上で軽く握り拳をつくった。この一年で、千鶴も男のような所作をたまに見せるようになっていた。
「……いえ、屯所の移転が落ち着いたら、また改めてお話させてください」
顎を引き真面目な面持ちで土方を見る千鶴には、幼さを残しながらも凜とした空気があった。
土方はそれを見定めるかのように目を細めてから、ぞんざいに言葉を掛けた。
「変な奴だな。まあいい、用が済んだなら部屋へ戻って寝ろ」
「はい。あ、忙しいところすみませんでした。失礼します」
千鶴は一礼すると、来た時と同じように作法に則り──しかし弾むような動きで障子を開いて退室していった。
「──山崎」
大きく溜息を吐き出した土方が静かに名を呼ぶ。
「はい」
千鶴が出て行った反対側、部屋の奥の障子が開いて監察方の山崎が姿を見せた。ほとんど音を立てない動作で土方に近寄り、控える。装束もそうだが、動作も忍びのそれであった。
「ありゃあ……巻き込んじまったなあ……」
苦笑を禁じ得ない。そんな様子で土方は膝を崩し胡座をかくと、文机の脇に置いた書状の山を徒(いたずら)に爪の先で弾いた。
対して山崎は表情も姿勢も崩さぬまま土方に答えた。
「もはや、雪村君もそれを望んでいるように思われますが」
「そういうつもりはなかったんだがな」
「雪村君も最初は違ったのでしょう。しかし今は彼女にも、新選組に求めるものがあるように思います」
「求めるもの? 父親の消息以外にか。あいつは武士になりてぇわけじゃねえだろ」
「ですが、彼女なりの誠があるのではないでしょうか」
土方は少し身を起こし、眉を寄せながら笑った。
「誠ぉ? あいつぁまだ子供だぞ」
「……副長が試衛館に入門なさったのは、あの年頃だったのではありませんか?」
山崎の言葉に、土方の顔から表情が落ちた。
考えるように軽く息を吸い、天井を見上げる。
その脳裏に何が過ぎったのか。
──やがて土方は視線を山崎に戻し、面白そうに笑った。
「ま、少し考えてやるか。その分、おまえの仕事が増えても文句は言うなよ。今までのところは無事だったが、あいつは長州から何時狙われてもおかしくねぇ身の上だからな」
「心得ました」
覆面の下で山崎の目が穏やかに笑んだ。
それから数日も過ぎぬうちに新選組は西本願寺北集会所(きたしゅうえしょ)とその周辺の使用を許され、移転のための工事を開始した。
桁行き十九間、梁間十五間。何百畳もある北集会所の大広間を仕切って部屋や廊下を作り、宿所としての体裁を整えるのだ。
千鶴は土方の命を受け、西本願寺と壬生屯所の間を日に一、二度往復するようになった。工事の見取り図を片手に、変更や細かい指示が出れば西本願寺へ走り、現場から質問が上がればそれを携えて壬生屯所へ戻る。
合間に、新隊士の為の隊服の発注書を呉服屋に運んだりもした。
彼女の使いには山崎が必ず護衛についた。
ならば自分のような子供ではなく山崎が使いもこなせば都合が良いのではと千鶴が問うと、監察として潜入なども行う自分が明らかに新選組の者として顔を知られるのはまずいのだと山崎は答えた。
八木邸の中でも彼女の仕事は増えていた。幹部たちの荷物の整理だ。ほとんど個人の持ち物など無い者も居れば、書籍や私服等、どう見ても荷造りが必要な者も居た。
千鶴はついでに、今まで掃除の行き届かなかった各幹部の部屋の清掃も申し出た。立つ鳥後を濁さず。そう言った千鶴に理を認め、土方は幹部たちが巡察等で部屋を空けている間の清掃を許可した。
もちろん、そんな状況では父親を探す暇などない。千鶴が巡察に出る機会は目に見えて減った。
だがふさぎ込んでいた千鶴に明るさが戻り、いや、以前にも増して伸びやかに動くようになったのを、幹部の誰もが喜ばしく思っているであろうことは千鶴を見守る彼らの眼差しからも明らかであった。
ただ一人を除いては。
そのただ一人である、沖田の部屋の掃除に千鶴は精を出していた。欄間や障子の桟は、埃を落として丁寧に拭った。敷居は竹串で埃を掻き出した後、障子が滑りやすいように蠟を塗る。畳は掃き出してから固く絞った雑巾をかけた。
手拭いを頭にかぶり袖を襷(たすき)でキリリと縛り上げ、腰にはたきを差した出で立ちは、なかなかに勇ましかった。
そんな千鶴が文机を布で乾拭きしていると、夕暮れ時になって巡察から戻ったのか、部屋の主が背後から険を含んだ声を掛けてきた。
「何をそんなに一生懸命になってるのかなあ。綱道さん探しに行かなくていいの?」
千鶴はぴたりと動きを止めた。
首を巡らせ振り返る。
つい先日、父親を見つけて早くここを出て行けと言った青年は、左腕をだらりと剣の柄にかけて千鶴を見下ろしていた。くすんだ夕暮れの光を斜めに背負ってぼんやりと影になった表情はよく見て取れないが、笑っていないことだけは判じられる。
千鶴はすっくと立ち上がった。
襷でたくし込んだ袖が多少邪魔なのか、脇が少し浮いて仁王立ちのような立ち姿になった。
「──いけませんか」
千鶴は視線がぶつかるのも構わず、真っ直ぐに沖田を見た。部屋に残るわずかな光を拾い集めたように、その瞳は刹那、きらりと輝いた。
「父様は探し続けます。父様から直接、聞きたいことがたくさんあるんです。──でも、それだけじゃないといけませんか」
真剣に言い募る千鶴の視線を沖田は静かに受けた。表情も身体も不動のまま動く気配はない。
対して千鶴は、無意識の内か、摺り足で右の足を半歩前に出していた。
「理由はどうあれ、私を置いてくれている新選組に恩義を感じてはいけませんか。秘密を知っている私を、殺さずに置いてくれる新選組の皆さんの信頼に、少しでも応えたいと思うのは変ですか。私なんかが出来ることは限られてます。何が出来るのかも良くわかってません。だから、出来ると思ったことはすべてやりたいんです」
千鶴は一文毎に鋭く息を継ぎつつそこまで言い切ったが、激昂した様子はなかった。ただ、一歩も引かぬ意志を漂わせて沖田と対峙していた。
数瞬の後、その静謐を破ったのは沖田だった。
ふっと零した息づかいは穏やかに夕闇へと紛れた。
「君も物好きだね。──勝手にしなよ」
千鶴の瞳がまあるく見開かれた。
唇は笑みの形に開き、並びの良い歯が垣間見えた。
「──はい。ありがとうございます……!」
嬉しげに頭を下げて礼を言う千鶴に、今度は分かりやすい溜息をついて沖田は苦笑した。
「別に礼を言われるようなことじゃないよ。……それより、だいぶ暗くなってきたし行灯に火を入れたら?」
「そうですね。あ、片付けないといけないし、やっておきますから沖田さんは広間にでも行っていてください」
「この格好で?」
沖田は浅葱の隊服を軽くつまんでみせた。ああ、と千鶴は大きく頷く。
「じゃあ、私が掛けておきます。貸してください」
千鶴が片手を差し出すと、沖田は羽織紐を外して彼女に背を向けた。左袖だけを落として肩越しに振り返る。
どうやら手伝えと言いたいらしい。
はいはいと笑顔で頷きながら近寄った彼女が羽織りの左袖を掴むと、沖田はひらりと身を翻して右袖からも腕を引き抜き、隊服を持ってぽかんとする千鶴を自由になった両腕で囲い込んだ。
「──お……沖田さんっ……!?」
一拍遅れて我に返った千鶴が沖田の腕の中でもがく。沖田は余裕の笑顔で千鶴を閉じこめると、しゃあしゃあと嘘を並べた。
「そんなにびっくりしなくても。千鶴ちゃんが転んだから抱きとめただけなんだけどなあ」
「──転んでません!」
「ほら、そこの箒に足をひっかけて」
「ひっかけてません!」
「じゃあそっちの桶に」
「ひっかけてたらここは水浸しです!!」
沖田は声を出して笑った。
「変なところで因果にこだわるね」
笑って緩んだのか解放するつもりになってくれたのか。
とにかく彼の腕の力が弱くなったことに気づいた千鶴は、何とか沖田を振りほどくと隊服を持ったまま脱兎の如くその場を逃げ出した。
「千鶴ちゃーん? 僕の隊服持ってどこいくのー?」
駆け去るその背に沖田が間延びした声を掛けると、
「後で片付けますからそのままにしておいてくださいっ!!」
悲鳴のような声が遠くから戻ってきた。
混乱しているのか、言っていることがずれている。
沖田はくすくすと笑いながら床に放置された箒を拾い上げた。
千鶴が逃げた先へと視線を向ければ、屋根に掛かった三日月が目に入る。
剣の切っ先のような月。
もう間もなく西に落ちる。
沖田は箒の穂先を肩に掛けると、楽しげな笑みを口元に刻んだ。
結局、千鶴が屯所に戻ったのは広間に夕餉が並べられ始めた頃だった。
一度自室に寄ってきたのか、出ていた折に腰に差していた小太刀は見あたらない。八木氏内儀が膳を運ぶのを慌てて手伝い、いつものように飯釜から全員分の茶碗に米をよそった。
各人の膳に茶碗を配った折、沖田の前で千鶴は小さく手拭いの礼を言った。沖田は「どういたしまして」と目元を緩めた。夕餉の間に二人で交わされた会話はそれきりだった。
尤も、久し振りに局長副長が揃った夕餉の話題はもっぱら西本願寺移転に関する交渉の推移に終始し、雑談が交わされるような雰囲気でもなかった。
千鶴は早々に食事を切り上げて静かに広間を出た。何人かの視線が気遣わしげに千鶴の背に注がれたが、彼女が気づくことはなかった。
その夜。文机に行灯を寄せて土方が書面をしたためていると、障子の向こうに遠慮がちな気配がわだかまった。
だが入室を求める声は聞こえてこない。土方は筆を置き、溜息をついてから声を掛けた。
「どうした」
土方の呼びかけに観念したのか、障子越しにか細い声がした。
「土方さん……少し、いいですか」
「入れ」
夕餉の時よりも青白い顔をした千鶴がきちんとした作法で入室し、その場に正座した。土方は腕を組み、顎の先で自分の前に座るように促した。千鶴は手をついて軽く頭を下げると土方の指示に従って文机の前に移動した。
「で、何の用だ」
平坦な土方の声に、千鶴は膝に置いた両の拳を握り締めた。袴に皺が寄る。俯き、ぎこちなく口を開いたり唇を噛み締めたりする様子からは、早く話さなければという焦燥と容易くそうはできないという葛藤が見て取れる。
土方は無言で彼女の葛藤の終結を待った。
やがて千鶴は震える息を大きくついて顔を上げた。
「土方さん……もし、もし私が、父様を探すのを諦めるとしたら……どうしますか」
「……」
彼にとっては意外な話ではなかったのか、土方の表情はほとんど動かなかった。
「……江戸に帰りてえのか」
「……」
冷静な視線を向けられ、千鶴は是とも否とも言わず黙したまま下を向く。
土方は、すっと鋭く片眼を眇(すが)めた。
「おまえは新選組の秘密を知っている。本当なら殺してしまいたいところだが……」
そして苦笑した。
「……江戸に幾つか伝手(つて)がある。素性を隠し、ただの娘としてそこに居てもらうことになるだろうよ」
「……え……?」
思ってもみなかった言葉を聞いたとばかりに、千鶴は目を剥いた。ゆっくり顔を上げる。
そこには、まだ苦笑を浮かべたままの土方が居た。
「……殺さないんですか」
問う声は掠れた。疑問の形に開かれた唇は結ぶことを忘れられたように放置される。
逃げるなら殺す、秘密を知ろうとすれば、漏らすようなら殺す。一年以上もそう言われ続け脅され続けてきた少女の反応としては無理もない。
千鶴の呆けた顔を見て土方は少し笑った。
「まあ、そこで怪しい動きでもするようなら放っちゃおかねえが。そういう奴じゃねぇだろ、おまえは」
「──」
気安い笑みを含んだ土方の言葉に。
千鶴の双眸は零れんばかりに見開かれた。
拳に握り込まれた袴に、更に皺が寄る。拳は震えた。腕も、肩も。
息は一呼吸、音を立てて飲み込まれ、止まった。
瞳に涙が滲んだと見えた瞬間。
それはとめどなく溢れ出て、頬を伝った。
頬を伝い顎を滑り落ちて小さな拳に、袴に落ちる。
突然の雨のように。
土方は珍しく困惑した様子で眉を寄せた。
「……おい、何故そこで泣く」
「すっ、すみません。なんっ、でもありません、ありがとうござっ…います…」
千鶴は呼吸と謝罪と礼とを一度に行おうとして少しむせた。土方は肩をすくめて苦笑した。
呼吸を整えながらあわあわと涙を袖で拭い、力任せに擦った為に目の周囲を朱く腫らした千鶴は、畳に両の指先を揃えた。
「これからも、ここで父様を探します。新選組の力を貸してください!」
勢いよく、深々と頭を下げる。
土方は千鶴に頭を上げるように言って、組んでいた腕を解いた。
「ま、そうしてくれるとこちらもいろいろと手間が省ける。江戸で誰かに預けるってぇのも面倒な話だからな」
「はいっ、──あ、屯所の移転でこれから忙しくなりますよね、私に出来ることがあれば何でも言ってくださいっ」
ばっ、と頭を上げた勢いのままの口調にも、部屋に入ってきた時とは別人のような輝きを湛えた瞳にも、千鶴が感じているであろう嬉しさが満ち溢れていた。
土方は一度目を閉じ──開いて、頷いた。
しょうがねぇなと言わんばかりの、苦りきっているくせにどこか甘い、沖田に過保護と称される顔をしていた。
「……わかった」
「ありがとうございます!」
「話はそれだけか」
「あ──」
そこで、久々に顔をほころばせていた千鶴が言いよどんだ。
「どうした」
「一つ、お願いがあるんですが……」
「何だ。言ってみろ」
千鶴は畳に指をついて前のめりになっていた姿勢を戻し、左右の腿の上で軽く握り拳をつくった。この一年で、千鶴も男のような所作をたまに見せるようになっていた。
「……いえ、屯所の移転が落ち着いたら、また改めてお話させてください」
顎を引き真面目な面持ちで土方を見る千鶴には、幼さを残しながらも凜とした空気があった。
土方はそれを見定めるかのように目を細めてから、ぞんざいに言葉を掛けた。
「変な奴だな。まあいい、用が済んだなら部屋へ戻って寝ろ」
「はい。あ、忙しいところすみませんでした。失礼します」
千鶴は一礼すると、来た時と同じように作法に則り──しかし弾むような動きで障子を開いて退室していった。
「──山崎」
大きく溜息を吐き出した土方が静かに名を呼ぶ。
「はい」
千鶴が出て行った反対側、部屋の奥の障子が開いて監察方の山崎が姿を見せた。ほとんど音を立てない動作で土方に近寄り、控える。装束もそうだが、動作も忍びのそれであった。
「ありゃあ……巻き込んじまったなあ……」
苦笑を禁じ得ない。そんな様子で土方は膝を崩し胡座をかくと、文机の脇に置いた書状の山を徒(いたずら)に爪の先で弾いた。
対して山崎は表情も姿勢も崩さぬまま土方に答えた。
「もはや、雪村君もそれを望んでいるように思われますが」
「そういうつもりはなかったんだがな」
「雪村君も最初は違ったのでしょう。しかし今は彼女にも、新選組に求めるものがあるように思います」
「求めるもの? 父親の消息以外にか。あいつは武士になりてぇわけじゃねえだろ」
「ですが、彼女なりの誠があるのではないでしょうか」
土方は少し身を起こし、眉を寄せながら笑った。
「誠ぉ? あいつぁまだ子供だぞ」
「……副長が試衛館に入門なさったのは、あの年頃だったのではありませんか?」
山崎の言葉に、土方の顔から表情が落ちた。
考えるように軽く息を吸い、天井を見上げる。
その脳裏に何が過ぎったのか。
──やがて土方は視線を山崎に戻し、面白そうに笑った。
「ま、少し考えてやるか。その分、おまえの仕事が増えても文句は言うなよ。今までのところは無事だったが、あいつは長州から何時狙われてもおかしくねぇ身の上だからな」
「心得ました」
覆面の下で山崎の目が穏やかに笑んだ。
それから数日も過ぎぬうちに新選組は西本願寺北集会所(きたしゅうえしょ)とその周辺の使用を許され、移転のための工事を開始した。
桁行き十九間、梁間十五間。何百畳もある北集会所の大広間を仕切って部屋や廊下を作り、宿所としての体裁を整えるのだ。
千鶴は土方の命を受け、西本願寺と壬生屯所の間を日に一、二度往復するようになった。工事の見取り図を片手に、変更や細かい指示が出れば西本願寺へ走り、現場から質問が上がればそれを携えて壬生屯所へ戻る。
合間に、新隊士の為の隊服の発注書を呉服屋に運んだりもした。
彼女の使いには山崎が必ず護衛についた。
ならば自分のような子供ではなく山崎が使いもこなせば都合が良いのではと千鶴が問うと、監察として潜入なども行う自分が明らかに新選組の者として顔を知られるのはまずいのだと山崎は答えた。
八木邸の中でも彼女の仕事は増えていた。幹部たちの荷物の整理だ。ほとんど個人の持ち物など無い者も居れば、書籍や私服等、どう見ても荷造りが必要な者も居た。
千鶴はついでに、今まで掃除の行き届かなかった各幹部の部屋の清掃も申し出た。立つ鳥後を濁さず。そう言った千鶴に理を認め、土方は幹部たちが巡察等で部屋を空けている間の清掃を許可した。
もちろん、そんな状況では父親を探す暇などない。千鶴が巡察に出る機会は目に見えて減った。
だがふさぎ込んでいた千鶴に明るさが戻り、いや、以前にも増して伸びやかに動くようになったのを、幹部の誰もが喜ばしく思っているであろうことは千鶴を見守る彼らの眼差しからも明らかであった。
ただ一人を除いては。
そのただ一人である、沖田の部屋の掃除に千鶴は精を出していた。欄間や障子の桟は、埃を落として丁寧に拭った。敷居は竹串で埃を掻き出した後、障子が滑りやすいように蠟を塗る。畳は掃き出してから固く絞った雑巾をかけた。
手拭いを頭にかぶり袖を襷(たすき)でキリリと縛り上げ、腰にはたきを差した出で立ちは、なかなかに勇ましかった。
そんな千鶴が文机を布で乾拭きしていると、夕暮れ時になって巡察から戻ったのか、部屋の主が背後から険を含んだ声を掛けてきた。
「何をそんなに一生懸命になってるのかなあ。綱道さん探しに行かなくていいの?」
千鶴はぴたりと動きを止めた。
首を巡らせ振り返る。
つい先日、父親を見つけて早くここを出て行けと言った青年は、左腕をだらりと剣の柄にかけて千鶴を見下ろしていた。くすんだ夕暮れの光を斜めに背負ってぼんやりと影になった表情はよく見て取れないが、笑っていないことだけは判じられる。
千鶴はすっくと立ち上がった。
襷でたくし込んだ袖が多少邪魔なのか、脇が少し浮いて仁王立ちのような立ち姿になった。
「──いけませんか」
千鶴は視線がぶつかるのも構わず、真っ直ぐに沖田を見た。部屋に残るわずかな光を拾い集めたように、その瞳は刹那、きらりと輝いた。
「父様は探し続けます。父様から直接、聞きたいことがたくさんあるんです。──でも、それだけじゃないといけませんか」
真剣に言い募る千鶴の視線を沖田は静かに受けた。表情も身体も不動のまま動く気配はない。
対して千鶴は、無意識の内か、摺り足で右の足を半歩前に出していた。
「理由はどうあれ、私を置いてくれている新選組に恩義を感じてはいけませんか。秘密を知っている私を、殺さずに置いてくれる新選組の皆さんの信頼に、少しでも応えたいと思うのは変ですか。私なんかが出来ることは限られてます。何が出来るのかも良くわかってません。だから、出来ると思ったことはすべてやりたいんです」
千鶴は一文毎に鋭く息を継ぎつつそこまで言い切ったが、激昂した様子はなかった。ただ、一歩も引かぬ意志を漂わせて沖田と対峙していた。
数瞬の後、その静謐を破ったのは沖田だった。
ふっと零した息づかいは穏やかに夕闇へと紛れた。
「君も物好きだね。──勝手にしなよ」
千鶴の瞳がまあるく見開かれた。
唇は笑みの形に開き、並びの良い歯が垣間見えた。
「──はい。ありがとうございます……!」
嬉しげに頭を下げて礼を言う千鶴に、今度は分かりやすい溜息をついて沖田は苦笑した。
「別に礼を言われるようなことじゃないよ。……それより、だいぶ暗くなってきたし行灯に火を入れたら?」
「そうですね。あ、片付けないといけないし、やっておきますから沖田さんは広間にでも行っていてください」
「この格好で?」
沖田は浅葱の隊服を軽くつまんでみせた。ああ、と千鶴は大きく頷く。
「じゃあ、私が掛けておきます。貸してください」
千鶴が片手を差し出すと、沖田は羽織紐を外して彼女に背を向けた。左袖だけを落として肩越しに振り返る。
どうやら手伝えと言いたいらしい。
はいはいと笑顔で頷きながら近寄った彼女が羽織りの左袖を掴むと、沖田はひらりと身を翻して右袖からも腕を引き抜き、隊服を持ってぽかんとする千鶴を自由になった両腕で囲い込んだ。
「──お……沖田さんっ……!?」
一拍遅れて我に返った千鶴が沖田の腕の中でもがく。沖田は余裕の笑顔で千鶴を閉じこめると、しゃあしゃあと嘘を並べた。
「そんなにびっくりしなくても。千鶴ちゃんが転んだから抱きとめただけなんだけどなあ」
「──転んでません!」
「ほら、そこの箒に足をひっかけて」
「ひっかけてません!」
「じゃあそっちの桶に」
「ひっかけてたらここは水浸しです!!」
沖田は声を出して笑った。
「変なところで因果にこだわるね」
笑って緩んだのか解放するつもりになってくれたのか。
とにかく彼の腕の力が弱くなったことに気づいた千鶴は、何とか沖田を振りほどくと隊服を持ったまま脱兎の如くその場を逃げ出した。
「千鶴ちゃーん? 僕の隊服持ってどこいくのー?」
駆け去るその背に沖田が間延びした声を掛けると、
「後で片付けますからそのままにしておいてくださいっ!!」
悲鳴のような声が遠くから戻ってきた。
混乱しているのか、言っていることがずれている。
沖田はくすくすと笑いながら床に放置された箒を拾い上げた。
千鶴が逃げた先へと視線を向ければ、屋根に掛かった三日月が目に入る。
剣の切っ先のような月。
もう間もなく西に落ちる。
沖田は箒の穂先を肩に掛けると、楽しげな笑みを口元に刻んだ。
終幕
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